東照宮
正保2年(1645年)岡山藩主池田光政は、この地に岡山城・城下町・政の鎮護として東照宮を勧進されました。
勧請元は日光東照宮であり、この勧請は地方に東照宮を勧請する全国で始めてのものでありました。当社の東照宮創建を例にして150社を超える東照宮が全国に創建されました。
また、最初に鎮座していた玉井宮は藩主池田光政により南の広場(現在の駐車場)に移転遷座し、御寄附と備前国内別格五社に格上げをなせれました。
東照宮造営
現在、現存している建造物で本殿、随神門、石燈籠、参道等は東照宮創建当時のものです。東照宮以前の玉井宮の社殿については一切記録したものが発見されて居らず、探しています。東照宮は池田光政の大願で岡山に勧請し、その社殿造営には家老池田出羽守を大奉行とし、徳川幕府の作事方総大工木原杢允を大工棟梁に充て、備前藩の作事総大工の地位にある横山三郎右衛門は小工として次席に置くなど、人員配置にも異常の配慮の払われた神社の造営でありました。徳川家康を祭神とする東照宮の備前勧請は、謂うまでもなく藩主池田家が徳川将軍に対する、誠意宣誓の表現であって、政治的意義が大きかったと思われます。また文化的、宗教的、教育的意義も含まれていたと思われます。「池田家履歴略記」正保2年(1645年)2月の記事中に、次のように記しています。
『東照宮造営
去年(正保元年)東叡山の開山天海増正を以て東照宮を備前に勧請し、城郭の鎮守と祝し奉らんことを将軍家(徳川家光)の御内聴に達せられしが、今年六月一日僧正より返答あって、同二日(池田光政が)酒井讃岐守(大老)の許へ参り給い、御勧請の事仰せあれば、(酒井は)貴殿の志は尤なれども、以後国々残りはなく願はれ、心にもあらぬ事に成行き候はんは如何也、さればいかに軽く御造営然るべしと答られける。烈公(光政)大に悦せ給い、やがて備前に帰られ其用意あり、七月九日諸役を命ぜらる。(カッコは注)』
上記のように時の大老酒井讃岐守忠勝から、東照宮の地方勧請が全国的な流行になり、華美を競うことになっては大変であるから、質素な社殿に造営せられるよう、という回答を得て、光政は満足して帰国し、同年7月9日別記のように東照宮造営諸役を定め、工事に着手しました。社地は当時の上道群門田村幣立山で、ここには古くから玉井宮が鎮座し八幡宮(地元の氏神)として崇敬されていたが、この宮を地続きの南部の低地に移し、その跡へ大がかりな東照宮の造営は行われました。
『かくて同年(正保元年)十二月十七日御作事落成しければ、池田出羽を始め諸役員ぶ御時服御胴服御袴白かね等を賜ふ、尤出羽には御刀賜りしと云。』
以上記すように慎重をきわめた東照宮の造営工事であったが、社殿が竣功すると神体の奉迎に移る、これ亦周到な準備のもとに礼儀正しく行なわれました。
江戸では正保元年(1644年)9月17日に東叡山毘沙門堂門跡公海僧正が神体開眼供養を修し、同12月1日備前から奉迎のため老中池田佐渡、鉄砲頭荒尾内助及び熊谷源太兵衛らの一行が岡山を出発しました。そして正保2年(1645年)正月19日、神体を金輿に移し、上野門跡名代常照院憲海その他多くの僧侶が供養して江戸を出発、伏見から船で大阪にくだり、大阪からは奉迎のために新造した日光丸に移乗、常照院及び山門衆徒は別船に乗り、2月8日に邑久郡牛窓港に着船しました。岡山からは家老日置若狭が御迎えとして牛窓に出張、その日のうちに岡山に到着、幣立山の仮殿に安置した。ついで16日夜遷宮、17日御本社で四箇法用執行、18日御本地堂で薬師如来開眼供養、19日拝殿で論議執行、論題教観勝劣、上道群築地山の僧侶により奏楽があり、勧請の規式が終りました。
東照大権現から東照宮へ
東照宮の備前勧請は棟札に記すように天台宗東叡山毘沙門堂門跡公海僧正を導師とし、諸儀式が仏式により行われており、初めは東照大権現と称しました。「池田家履歴略記」にも、正保2年(1645年)5月17日華表に東照大権現の額を懸けるとあり、つぎに(同年)12月3日宮号の勅許あり、東照宮と申し奉る、と記るす。しかし、鳥居の額はそのままにしておき、延宝4年(1673年)11月11日、東照宮の額を懸ける、梶井盛純法親王の筆、と見える。
東照宮の神輿
備前第一の盛儀とされた東照宮の「権現祭」には、衆人の眼をおどろかせる金色燦然たる神輿が練りだしました。この神輿について湯浅常山(1708年~1781年、名元禎、藩士)は、文会雑記附録巻二の中に次ぎのように記るしていました。常山は東照宮造営のとき、惣奉行をつとめた湯浅右馬允の四代の孫にあたり、自家に当時の記録がのこっていたので、それにより覚え書きをのこしたものであります。
1、
吾藩、神祖を郊祀(郊外の野で祭典)し給うは裂公の時台廟の賜なり。神祖の神輿は善盡し善盡せり。吾大東の日光山の神輿と吾藩の神輿と只二つ、是より美なるはなしと世には云なり。
禎が大父の遺筐中に、神輿を造られたる時の目録あり。神輿及旌旗、戈矛(ほこ)、俊倪(獅子)と合せて銀拾七貫目の料なり、詳に其事をしるせり。禎が四世の祖(右馬允)其時神祖廟を経営せる総管たる故なり。
今を以て見れば三百貫目の銀にてあらざれば造らるべからずと人言へり。因に想ふに往古物価の賤き事を知るべし。神祖の廟を造られしは正保元年の事なり、郊祀は正保三年丙戌に始れり、今に去る百年なり。又烈公を因幡より備前に封じ賜ふは寛永年中なり(中略)
1,
烈公宗廟を建させ給ふの後、平安の伶人来りて舞楽す。此事くはしく森川助左衛門輯する所の記に見へたり、其記甚秘として人に出さずと人の語りき。(原文片仮名)
文中にあるように、日光東照宮の神輿を備前の東照宮の神輿と、日本にただ2つと云われたほどの名品であったが、明治以後他へ譲渡したものか、この神輿は玉井宮には残っていない。