玉井宮について

 

玉井宮は、元来、児島半島東端の児島郡小串村大字光明崎(現・岡山市南区小串)に鎮座しており、創建不詳となっていますが古文書によれば大宝3年(703年)に創建された神社です。そして応徳2年(1085年)当地に玉井宮として移転遷座しました。この時の祭神は豊玉比売命1柱のみであったと伝えられています。

玉井宮は現在の地に遷座してからの歴史しかはっきりしておらず、元地である光明﨑に鎮座していた時期のことがはっきりとわかっていません。元地には社がなく、祭礼が行われていたであろう広い開拓された場所があるのみとなっています。外来宗教観を受けていない古神道であったと思われます。また光明﨑に鎮座していたころに玉井宮から分社されたと思われる神社仏閣が瀬戸内海中心に鎮座しています。

日本書紀古事記等に光明﨑に鎮座していたころの玉井宮のことについて詠んだであろう豊玉比売命の和歌があります。
『赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装ひし 貴くありけり』 (日本書紀より)
『赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひし 貴くありけり 』(古事記より)

玉井宮伝承

玉井宮遷座にはつぎの伝承があります。
『岡山の東南半里、玉井宮の後の山なり。往古玉井の明神海上より此所へ垂跡まします先、今の光明﨑にましましける。此時光明輝き海上を照らしたまえば内海の海人共猟業叶ひがたく、仍ㇾ之光明﨑より此峯に移し奉る。其時始て御幣を建てし故、斯名付けて幣建(立)山共いふ。遥の後、今の玉井宮の地へ遷し奉る。玉井の御事は世にあまねく知る所なり。爰に略す。』(吉備前秘録より)

『遷座した年の応徳2年(1085年)、社頭より夜ごと怪しい光が発せられ、このため魚が寄りつかなくなり漁師は不漁で困っていた。そこで神前にお伺いをたてたところ、「御幣が舞い上がり、飛んで立ったところに遷座するように」との御神託があった。その御幣が立ったところを幣立山と呼び遷座した。』(要約)

そして、この宮を「玉井宮」または「玉の宮」「玉の浦」と呼ぶようになりました。

玉井宮の社僧

また多くの社僧が玉井宮に奉仕されてました。その中で瓶井山安住院が一番古く玉井宮が現在地に遷座した応徳2年(1085年)から仕えていましたが、遠方で便利が悪いので、延宝2年(1674年)に、当時門田にあった末寺三ヵ寺である大徳院、大福寺、薬師坊(徳与寺)に移りました。その後、宝永5年(1708年)に社僧三ヵ寺を放免しています。また、安住院が社僧を務めている時代に瓶井山(現在、操山)の鎮守として玉井宮の名がありました。

玉井宮縁起

大福寺にある玉井宮縁起によると、
・大同元年(806年)弘法大師(空海)帰朝の折、釜島沖を上洛中玉井宮より金色の光明輝き、大師怪しんで湊の浦に入り玉井宮に登る。
虚空蔵菩薩出現して「我が讃州綾の益甲が家に生れ、今はこの地にある 在唐中霊夢を告げた」と仰られた。
・大師は感激して本地虚空蔵菩薩尊像1軀と鳥居1基を建立した。
・玉井宮の額もこの時に大師が書いたものであった。

天安2年(858年)智証大師(円珍)帰朝の折、児島沖を上洛中、玉井宮に異相を見て船を寄せ参詣した際、薬王士が出現して「我が讃州に生れ今はこの地にいる、汝の守護神である。」と仰られた。
・大師は薬師如来像1軀、如意輪観音像1軀を造作して脇士とされた。
・これらは綾益甲の内にあったものを幻の中に感得して造像したものである。
これらは仏教色の濃いもので、弘法大師・智証大師等の高僧にも関連深い神社となっていいます。 

たま

皇室および武将旧藩主の崇敬

当社は皇室及び武将旧藩主の崇敬も厚く、幣立山を始め周りの土地を寄附されただけでなく、多くのものを奉納されてきました。

・当宮は応徳2年(1085年)当山鎮座以来、領主、地頭等崇敬厚く浮田家家最も崇敬を表し、天正18年正月28日禁制の制札を付与す。
・旧藩主池田家累代崇敬ありて社領、山林等を寄附したるのみならず、正保2年正月20日および正徳4年5月禁制の制札を付与し、自ら参拝して幣帛神饌もしくは飾太刀を奉献し祭典の当日は代参を参向せしめ其也、毎年(年頭)門松8本、飾竹400本(例祭)注連竹106本、角力揚採燈(護摩焚)、松葉および年中神供薪等を寄附して特に崇敬の意を表し、池田継政の如きは最も信念厚く自筆の絵馬数個を奉納せり。
・元和8年および正保2年には社殿を改造寄附せられ、本殿修繕の際は用材として木材数多く寄附するを以て例とす。
・嘉永3年高松季実卿の執奏により、皇后宮御安産御祈願被仰出御祈禱執行後、御札守等の献上を許されたり。その際、『大君の御子のいのりの功績を雲井に高くきこえあげたり』という和歌を頂いた。

藩主池田家との関係

藩主池田光政の命で正保2年(1645年)に東照宮を備前に勧請することなりました。光政は東照宮勧請地に幣立山を選ばれたので、玉井宮は同山の南方の広場(現在、駐車場)に移転遷座しました。玉井宮は移転遷座する前から歴代岡山藩主池と鴨方池田藩主からも厚く御崇敬頂いていましたが、鎮座地を明け渡すことだったので多くの御寄附と備前国内別格五社(吉備津彦神社、安仁神社、酒折宮、玉井宮、東照宮)の一社に加えられました。
また、その中でも池田継政公の尊信ぶりは、記録の上で目立っていました。
・『寛延元年九月八日、殿様不意ニ私宅ヘ御入被遊晩八ッ時』
・『同年九月二七日宵ヨリ曇ル同夕ヨリ雨降ル 四ッ二三歩頃殿様御社参、主馬(玉井宮神職)内蔵介罷出ル奉幣、主馬ヘ御意アリ』
・『同二九日昼過御絵馬御見分之由、殿様御宮ヘ御出被遊暫ク有リテ御帰リ』
上記のように殿様も玉井宮へ参拝されました。
池田家による神社明細帳にも『東照宮 但富藩側近崇敬之社』『玉井宮 但富藩側近崇敬之社』と書かれているように玉井宮、東照宮両社ともに藩側近の崇敬の神社でありました。

ご祭神

江戸時代になって玉井宮の祭神に、池田光政の命により彦火火出見命、吉田氏の裁量により玉依比売命の2柱が合祀されました。


玉井宮にお祀りする祭神豊玉姫命は海神の娘であり、いわゆる日向神話の中心神であるが、その海原を司る権威と安産、子育ての神としての霊験はつとに名高く多くの人々の尊崇を受けてきました。